4月20日(土): 苺食み聡き果実と思ひけり
ハムチーズトースト、カフェオレ、苺の朝食を食べたあと、ある雑誌をふと手にとる。そこに載っていた、自分の句にたいする、鞆彦先生の評を読んで泣いた。その句は取合わせの句で、ほとんど直感で作っていたのだが、評によって自分の無意識だった部分が「ああ、そうだったんだ」と、表面に浮かびあがってきて、そのことにひたすらに感動したのだ。
評には正解はなく、想像も駆使されるものだから、すべてがその通りというわけではない。自分のことを詠んでいるとも限らない。
それでも、バレている!というような"真"の部分を、俳句は含んでしまうものかもしれないと思う。
わたしは俳句の評や鑑賞が得意ではなく、だがそれを周囲にたいして、負い目にかんじる時期も過ぎてしまって、何というか開きなおりに近いかたちになっている(というか、気にしないでおこうと思っているだけかも)。いつか自分も、先生のような評や鑑賞ができるようになりたい。
そんなことを思いながら、食卓であまりに自然に泣いていたからか、近くにいた子にはとくに気づかれていなかった。
就寝前に、大崎清夏『私運転日記』(twilight)を読了。終盤に、日記文学(日記は文学だと思う)の核心をつく部分が突然にあって、その日の日記は大崎さんも〈あとがきみたい〉と書かれていたのだけど、読んでいてどきりとした。
(今日の句は映画『カラオケ行こ!』を観たときに作った句だ。Netflixによる配信がすでに始まっていて驚く。毎日観ようと思っていたのに、まだ最初の20分程、狂児が1回目の紅を歌ったあたりまでしか観られていない)
コメント
コメントを投稿